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  穴窯時代
 中世の丹波焼は、創業以来桃山時代末期に至って山麓に登り窯が築かれるようになるまで、約400年の長きにわたって穴窯時代が続きました。
 今田町(現篠山市今田地区)は当時摂津住吉神社の荘園で「小野原荘」と称していたところから「小野原焼」と呼ばれ、三本峠周辺の山腹に穴窯を築いて焼成されました。現在までに発見されているその古窯跡は、三本峠・床谷(とこらり)・源兵衛山・太郎三郎(たさうら)・稲荷山の5か所です。

穴窯の構造と焼成
 穴窯は、山腹の傾斜地に溝を掘り込んで石や粘土で固め、天井を築いて土をかぶせるという、極めて簡単な構造です。穴窯による焼成にはかなり長い日数(半月ぐらい)を要し、また、焼成室が1室のため、1回の焼成量は限られたものでした。



登り窯の導入
 近世における丹波焼は、慶長16年(1611)ごろ、朝鮮式半地上の登り窯が導入されたことによって、これまでの長い穴窯時代に別れを告げ、登り窯時代という新しい時代の幕開けでその歴史がはじまりました。
 この登り窯時代は、当初釜屋の山麓に登り窯が築かれていたので、「釜屋時代」とも「山麓時代」ともよばれる時代からはじまり、さらに宝暦2年(1752)には下立杭、さらには上立杭にも登り窯が築かれる「里窯時代」へと引き継がれていきました。
 この蛇窯(へびがま)ともよばれる朝鮮式半地上の連房登り窯が導入されたことによって、穴窯に比べて焼成時間が短く、また、一時に多くの製品を焼成することができることから大量 生産が可能となり、さらに、期を同じくして蹴(け)りロクロが採用されたことと相まって、丹波焼は画期的な時代を迎えることになりました。この登り窯は、ほぼ同時代に三田市上相野・下相野・四ッ辻などにも築かれています。


登り窯の構造
 登り窯の築造は、山麓の傾斜地に「そだて石」とよぶ石を並べて基礎とし、割り竹を縄で編んだものを支えとして、両側から「まくら」を半円形に積み上げます。このまくらは、山土を型に入れてこしらえた立方体の日干し煉瓦(れんが)で、現在では鉄板を支えとして積まれることが多いようです。このとき出入り口や燃料の投入口も設けられ、最後に「ごぢん」とよぶ窯内部の床を厚く塗り固めて完成します。
 窯は、焚き口のある「火床」に続いて焼成室が連なっていますが、火床に続く第一焼成室と「くど」とよぶ最先端の焼成室を除く、中間の焼成室の長さはほぼ均等です。この焼成室は「袋」とよばれ、それぞれ下端に出入り口が設けられています。
焼成室である袋と袋の境界には2〜4本の柱が設けられ、天井を支える役目をしています。これを「火がき」「火越し」あるいは「さま」とよびます。
 窯の先端部のくどには煙出しが設けられ、これは「くど先」「火さき」あるいはその形から「蜂の巣」とよばれています。しかし、最近ではこの火さきに煙突を取り付けたものがほとんどとなり、蜂の巣から吹き出される真っ赤な炎の美しさが見られなくなりました。
 窯の長さは焼成室(袋)の数によりますが、現存する最古の窯として兵庫県の重要民俗資料に指定されている上立杭の登り窯は、明治28年に築造された長さ47メートル、袋数9の窯で、よく古様を保って使用されている代表的な登り窯といえます。かつて多数の袋をもつ登り窯は、いずれも共同窯として使用されてきましたが、昭和40年代に入るころから個人窯が普及し始め、製品の小物化とともに窯の規模も2〜4袋と小型化しました。



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